どうもタテ(@tate1997ZA8f)です
今回は前回の続きで葬儀の日程が決まってから火葬までをお話させて頂きたいと思います。
もし前回の話が気になられたらご覧ください。
それではお話させて頂きます。
役所で不甲斐なさを感じた僕
妹より早く、4月5日に父・僕・弟の隔離期間が解除されまた
葬儀の日程を決める日を4月6日にする事となり、解除となった5日は弟と2人で葬儀用の靴・ネクタイなどを買いに近くのモールに出かけ、必要な物やレトルト以外の食べ物も食べたくなっていたので食料も少し買いました
僕は葬儀に必要な少しの現金もおろし、少し時間もあったので個人的に気になっていた自治体や国の制度で遺族者年金やその他補助金が出るのか聞きに役所や年金関係の部署も周りいくつか話を聞きました
どこも、子供である僕が父の代わりや役割分担して申請をするのに窓口となる各要所に委任状が必要となり、余計な書類が増え身動きが取りづらいことがわかり
成人していて社会に出ているにも関わらず、こういった申請は配偶者である父がメインでやって行かないといけないんだなと、子であり長男なのに辛い行為を分ける事が出来なかった事に不甲斐なさ・無力さを感じました
弟は、母と買い物やお出かけしている他の家族を見て少し懐かしそうな、寂しそうな目をしていました。弟は母と上手くコミュニケーションを取れずにいた事の後悔の様な気持ちだったのかと思います
僕もこういったシーンを見かけると羨ましく感じたりする事が増えて行くんだなと感じました
葬儀の日程が決まったのは両親の結婚記念日
4月6日の夕方に打ち合わせをする事が決まり、後になって気づいたのがこの日は両親の結婚記念日でした
1年前はちょうど結婚25周年で銀婚式ということもあり兄弟で出し合い、花を家に送りました。僕が花を買いに行ったのですが初めて花屋に行ったのでとても緊張したのを覚えています
結果としては予算を伝え、お店の方にお任せで用意をして頂きました。当日は母がとても喜んでくれたのを覚えています。ラインで写真を2,3枚ほど送られてきて母のテンションが高かったのをついこの間のように思い出せます
この時の出来事は葬儀の場で父が話す場でも出てきていたので父もこの日の母の姿はとても嬉しそうだったのかと思います
話が逸れてしまいましたが葬儀の費用に驚きつつも、母の葬儀の日が決まりました
葬儀当日
葬儀の日の朝になり、静かにも皆ソワソワしながら身支度を済ませて行きました
会場には昼過ぎに着き荷物を抱えながら棺に入った母の姿を見ました。綺麗に化粧をして頂いて頬が黄色くなっていたのですが、それも人肌の色に父も「お、綺麗にしてもらったね」と呟いていました
その後、今日の1日の流れを説明して頂き焼香の時の回数でしたり父が話をする時に僕たちは起立するのかなど話しました
結果としては、「父が話す時立ちますか」と聞かれた時弟が即答で「立ちません」と答え被せ気味に答えていたので少し驚きましたが、弟は続けて「立てないと思うし、その時は自分を保てていないと思うので」と答えました
確かにこの事は的を得ていて実際ボロボロでした、親族のご焼香が終わった後最前列の僕らは葬儀屋さんの案内に従って順路の端に一列に立ち170cm以上の4人でちょっとした壁のような形で来て頂いた方々に挨拶をしました
母の高校時代の友人・先生、父の会社の方、妹の部活の関係者の方・友人が来て頂き様々な方に来て頂いて母を惜しんでくれました
葬儀が終わり、通路で僕は母の友人の方々に母の病院での話やタブレットに入っていた写真を印刷をしていたので亡くなる1ヶ月ほど前の下手くそながらピースをしている写真を見せたりしました。話していると感じたのが僕は母の話を結構、聞いていた事に気づきました。
高校時代の部活の話もして頂いたのですが、僕が母から聞いていた話とかなり一致していて、母にとっても高校の時はかなりいい思い出だったんだなと思いました。「母が好きな中島みゆきのコンサートに父と行き青春時代を思い出していたのに横に居るのが父で『なんでやねん』」となった話をした時母っぽいと言って頂き、「笑顔で帰れそう」と言って頂き嬉しかったです。
葬儀の夜
この日の夜、親族である祖母と祖母の兄弟と別室で食事をしました。多めに用意をしていて余っていましたし、Uさん家が受付をしてくれていたので一時帰宅されていましたが、連絡をし戻って来てもらい懐かしい話をしました
互いに、最後に会ったのは僕が高校生の時だったので約6年ぶりに会い会話をしました。母の話もしながらワイワイ過ごし、会場にあったビールが無くなり、チューハイが無くなりと楽しい時間を過ごしました
夜も更けて来た頃、大学時代のバイト先の店長も来て頂いて少し話どこかでお話しさせて頂いたかと思いますが店長もお母さんをガンで亡くしていたので、バイトをして居る時に母の病気がわかった時に相談にのって頂来ました
「惜しい人を亡くしたな」と言って頂き母にも線香を立てて頂きました。何も用意していないからと、おにぎりやパンを頂いて父が魅力的なおにぎりを目にしてテンションをあげていました
この日の夜僕は、母のそばで携帯で中島みゆきの曲を流しながら母の線香を見ていました。何時まで起きていたとかは覚えていませんでしたが、父に声をかけられるまで居ました。今回の葬儀屋さんの施設には浴室もあったので、そこでシャワーを浴びベットで横になりこの日は終わりました
火葬日の日
この日も前日と同様に式は行われました。式が終わってからがしんどかったです
自分でも覚悟をして居たつもりだったのですが、棺に花を入れて行き最後の花を入れこれから蓋を閉める場面がきました
葬儀屋さんが「最後となりますので、語ってあげてください」と言われ僕ら兄弟は何もできずに居ました
祖母の妹に当たる方が「少しいい?」と母に触っても良いか尋ねてられ「はい」と答えました
母のおでこに手を当て「お疲れ様でした」と言って頂きました。この時近くにいた妹と目が合い、妹とは触れたいけど怖いといった感じだったので「一緒に触る?」と言うように母に頬を一緒に触りありがとうを伝えました
蓋を閉める時になり顔のを僕が持ち、ギリギリまで閉め切らず締め切る時に「バイバイ」とつぶやきました。この時にも妹が僕に目を合わせました。悲しいさとかが混ざった何とも言えない目をして居ました
そして霊柩車にのでました。住宅地が近い事もあってかクラクションは鳴らさず静かに葬儀屋を後にしました。
順調に火葬場に着き、カートにもすぐに乗りゆっくりと炉に向かって行きました。
重厚な観音扉が開いて母の棺が入るのを待ち構えていました。
火葬場の方の案内に合わせて手を合わせ、ゆっくりと母は吸い込まれるように入って行きました。この時は家族皆、込み上がるものがあり鼻をすすっていました。
扉が閉まった後、僕は閉まった扉にてを当て「さようなら」を心の中で言いました
また別室で食事をとり母が出てくるまでの時間を待ちました。父が「不思議やな、改めて写真みるとさっきより笑って見えるな」と言い本当にそうで母の顔が一段と笑って見えました
食事が終わり少し落ち着いた頃、涙で使えなくなったマスクの替えを取りに車まで取りに行くと言い僕は席を立ちました。この時の本当の目的は、映画や好きなバンドのMVで見た煙が空に上がって行くのが見れるのかと思ったからでした。
結果、煙を見る事ができずこれも住宅街が近いなどの理由があるからなのかなと思い、見れなかったのが残念だなと思いながら部屋に戻りました
アナウンスが流れ、お骨拾いをし火葬場を後にしました。また葬儀場に戻りお坊さんにまたお経を唱えて頂きました
こうして長いようで短かった日々は終わりました。
まとめ
これで母が向こうに逝き、葬儀の日の話をさせて頂きました。
当時は父(57歳)、母(54歳)、僕(25歳)、弟(21歳)、妹(16歳)でした。
今は49日も終わっていて、もう2ヶ月ほど経ちます。この2ヶ月は僕が思ったよりも早く過ぎていきまだまだ実感がありません。
入院していて、ある日突然失った事とは違い母が家にいない期間がそれなりにあったからかなと思っています。
よく世間では夫である父は妻を亡くして3年程度で他界するような事を耳にしますが、たぶん僕の父は大丈夫かなと思っています
妹が高校生で大学生になるのも2年ほど時間もありますし、僕もしばらくは実家で過ごすつもりでいます。
感謝
この場を借りて感謝をお伝えさせて頂けてたらと思います
Twitterで何人もの方々に当時コメント、メッセージを頂き独りでないことを知る事ができました
これからは少しずつ備忘録のように母の事を話していけたらと思っています。
今度は頂いた言葉を力に変えて、僕と同じように大切な方を亡くされた方にこのエネルギーや支えとなれる存在になれるよう過ごしていきます
本当にありがとうございました
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