【僕の母について】その6 〜母親のガン発覚〜

母の事

どうもタテです

母について話すこのシリーズ第6弾になります

今回は母のガンがわかった時の話をさせて頂こうと思います

この話は、このブログを始めた頃に話した内容かぶるところが多いかと思いますが、お話させて頂ければなと思います。

【僕の母について」その5 〜カウンセラーとしての母〜
母について
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2018年正月

僕たち家族は世間がコロナになるまで、毎年父の実家のある長崎に車で帰っていました。大阪からなので片道約720kmを超える走行となります。

僕が大学生になり、免許を取るまで父がこの距離を運転していました。僕が高速だけ半分運転するようになり父は少し楽になったと言っていました。

初めての時はずっと父は起きていましたが2回目からは、安心したのか僕が運転中は寝るようになりました。

少し、話がそれてしまいましたがことは正月の朝に起きました。

右側が見えないと言った

いつものように朝が来て、食事の準備をしていたら母の様子が少し変でした。最初は僕ら兄弟ともに何を朝から冗談を言ってるんだと思いました。

母の隣に座っていた弟は、ふざける様に母の右側から手を近づけたりして確かめていました。母はやはり見えていない様で、「ほんまに見えへんわ…」といていました。

僕自身も冗談を言っているんだと思い、流していました。でも気になったのは、お茶碗や箸が体の左側に固められていてこの時に、本当かもしれないと感じました。

しまいには母は、片目しか見えないことに疲れたのか直ぐに眠ってしまいました。そして、おねしょをする事態にまでなりました。

母はかなりショックと、父の実家で粗相をしてしまったことに対し申し訳なさそうにしていました。正月も終わり直ぐに、大阪に戻り検査を受けることにしました。

学校帰りのある日

大阪に帰ってきて直ぐにはやはり病院はやっておらず数日が経ち、いつもの様に大学から帰ってたとき直ぐに母から話をされました。

母

母ちゃん、ガンやって、ステージ4の..

僕は何を言っているか、わかりませんでした。ステージ4ってあの?としか思考が回らず。

タテ
タテ

うん

僕はこう答えることしかできませんでした。

次の日は学校があるので日常に飲まれるように学校に行きましたが、授業や友達との会話が入ってこずあっという間に数日・数ヶ月と時間が過ぎて行きました。

家族旅行

この話は別の記事にも書いている話なのですが、父が提案してくれました。

この旅行が本当に家族5人揃っての最後の旅行になりました。

とても良い思い出になりましたし、僕の下手くそながらにとった写真はツイッターの写真に使っていたり、鳥取砂丘で撮った遠くで小さく写る振り返ったときの母の満面の笑顔が宝物のひとつになりました。

この旅行は本当に良かったです。

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放射線治療

母は肺ガンから始まり、目が見えないことで発覚しました。目が見えないということで脳に転移しています。

脳に転移した細胞を狙うためガンマナイフを用いて治療を行いました。治療を行う前に何人かの医者を頼りました。〇〇病院の△△先生はこの分野では若いが腕が良いなど医者から情報をもらい、この病院で治療すると決め数ヶ月間の入院・治療が始まりました。

脱毛

放射線・投薬治療には付きものですが、脱毛が始まります。テレビなどで取り上げられている方は髪が無くなってしまう前に自分の意思で散髪される方が多い印象ですが母はそうではありませんでした。

ガンである事を母から告げられた時のように帰宅しリビングの扉を開けると、扉の横にちょこんと座って坊主姿の母がいました。

この時の母の姿は絶望した姿でとてもやつれていました。

退職

入院する事で母は会社に休職をしていました。

治療がひと段落し父と2人で出かけたついでに、母は会社に行き長期間休んでいた事に対し挨拶をして言ったそうです。

そしてまだまだ治療があるので休みの期間を延長して欲しいと交渉に行くつもりで言ったのですが、母のメンタルは疲労しきっていて交渉が上手くできなかったようで

結果としては、退職手続きに変わっていたそうで会社から出てきた母は肩を大きく落としていたようです

当時父はこの時、交渉ができず退職手続きをしてきた母を責めてしまったと言っていました。いま思えばこの時一緒に会社に行ってやるべきだったと言っています。

もし一緒に行けるなら皆さんも協力してあげてください。

社会復帰

治療がひと段落し、少し髪も生えてきて母にも元気が出てきました。

母は退職した会社でパートとして働き始めました。母は自分の治療費は払おうとし続けました。最低でも薬や治療で月々¥50,000円はかかると母は口をこぼしていました。

どうやってもフルタイムで働いて得られる給料全てを回す事になります。子供からお金を受け取ることが嫌な母の性格上、僕からのお金は受け取ってくれませんでした。

【僕の母について】その1〜母の家庭環境〜
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このパート生活も2ヶ月ほどで終わってします。母はお金の事ばかり気にしていました。

自転車でこける

パートには自転車で向かっていました。いつもの平坦な車の通りも少ない道で母は自転車のバランスを崩しケガをしました。

ケガをした時は家に弟がいたので、弟が母の手当てをしてくれました。

弟

母ちゃんも年やなぁ〜

気をつけなあかんで、次からは歩きの方がええんちゃう?

このように当時、母に言ったそうです。母はこれから何度か自転車で向かっていたのですが、やはりバランスを崩してしましケガを繰り返してしまいました。

この事もあり、母はパートもやめてしまい専業主婦になりました。

家で尻餅をつき倒れる

これまでバリバリ働いていた母が専業主婦となりましたが、母のメンタルはかなり落ち込んでいました。

母は自分ができる限りの事をやってくれていました。風呂洗いや洗濯物を取り込めたり。昔、僕が母にお小遣い欲しさにやっていた事を今度は母が僕や父にお願いされやっている。どこか寂しさを覚えました。

日に日に母は弱っていきました。壁にもたれないと立ち上がれず、歩くのも手すりや杖になるものを頼りに歩いていました。

あまりにも母が弱くなっていき、ネガティブな事ばかりを言っていました。「自分は何もできない」という事が多くなりました。

そして食器を運ぶために立ち上がった時に大きく尻餅をつきました。このときの事は別の記事で書いてますので、そちらをご覧頂ければと思います。

後悔していた一言が母の活力になった
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そして最後の入院をし、転院をして母は向こうに逝きました。

まとめ

最後まで読んで頂きありがとうございました。これでこのシリーズは終わりになります。

これまで母に対して書いていた事が今回のこの記事で全て繋がった気がします。

今の我が家はそれなりに皆が同じ家に住んでいるおかげかそれなりに元気にやれています。

また母のことで思い出したり、お伝えしたい事があったらお話しさせていただきます。

それではまた違う記事で。

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