【祖母が他界】家族で長崎へ

雑談

どうもタテです。

今回は7月の出来事をお話します。

連日の気温は高いし、風は吹かないので余計に暑さを感じていたら、8月になってました。笑

8月ってことは夏祭りも近いよな〜。花火大会はもうすぐかな?と思い調べたら、

大阪万博の影響で警備員さんが確保できないなどの理由で、近くの花火大会が10月に延期となってました。

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祖母が他界

7月中旬に祖母が他界しました。 

僕の身の回りで亡くなるのは4人目になりました。

高校1年生のときに叔父さん(父の兄)高校3年生のときは祖父(父方)、そして25歳の時に母

今回は祖母が亡くなりました。家族が減り、我が家がまた少し寂しくなりました。

数年前から、認知症のようなボケが始まっていて、3年ほどは施設に入っていました。

去年、父が1人で長崎に帰り祖母の様子を確認しに行き、祖母は目の前にいる人物が父だということが分かっていませんでした。

父は祖母と会話を続け、家族LINEに動画が送られてきました。

動画の内容は父と祖母との会話。

互いに自己紹介するように「私の名前は◯◯です。」と何度も言い合うものでした。

最後に祖母が父を認識したのか、「あんた◯◯(父)か」と言いました。

父は「さっきからそう言いよると」と嬉しそうに話してました。

僕が動くばあちゃんを見たのは、それが最後でした。

亡くなる前に父と妹が長崎へ

祖母が亡くなる1週間ほど前に、祖母の容態が良くなく、父と妹が様子を見に長崎へ向かってくれました。

前までは車で長崎に行ってましたが、父は60歳を過ぎて体力面もキツいようで、フェリーで行っていました。

フェリーでの様子や平戸の海に行った写真が送られてきました。父が妹と遠出できていることを楽しんでいる様子で、嬉しそうな父の顔を見ることができました。笑

二人が大阪に帰ってきたときに、父からは何も報告がありませんでした。

なので妹に様子を聞いて、かなり弱っていることを教えてもらいました。

母が亡くなるとき家族が集まり、亡くなる数分前の母の状態をみたので、今回の祖母の状態が長くないことが分かったのだと思います。

妹からの文面で、もうすぐお別れが迫っている状態ということが分かりました。

車で長崎へ

ある週末の夕方に、父から祖母が他界したと連絡がありました。

連絡があったその日のうちに、リュックに3日分の荷物をつめ、電車に乗りました。

実家へ向かう電車の中で、家族とLINEでこまめに連絡を取りながら、夜には集合して翌朝向かうことが決まりました。

このやり取りをいているなかで、毎度のことながら弟だけが足並みが合わず

「準急で向かう」とだけで「何時着の!?」という総ツッコミ。

連絡が来た時間くらいの準急かな?と思っていましたが、何時間たっても弟は集合せず。

しびれを切らした父が弟に連絡したところ、部屋すら出ていなかったようで「朝3時くらいに家を出で向かうで」と連絡してやっと事態を把握して、10時には家族がそろいました。

いつものように家族で雑談しながら、互いの近況を話し、この日は終わりました。

朝、僕は妹に起こされ寝ぼけた顔のまま車に乗り込みました。

昔は当たり前のように、半年に1度のペースで帰省していましたが

僕らの受験が始まった辺りから機会が少なくなり、母の病気が分かってからは家族で長崎に帰ることは無くなりました。

家族そろって長崎に行くのは10年近くぶりになります。

運転席に父、助手席に僕、後部座席に弟と妹が、いつもの定位置に着席。

父、僕、弟の3人が運転手となり750km先の父の実家へ向かいました。

車中を車に入っていた懐かしい歌を流し、みんなで歌える歌を合唱。

サービスエリアでは朝食をジャンケンで決めたり、昼食ではお肉が食べられないだろうと考え、肉料理を選んだりしました。

時間が母がいた頃に戻ったようでした。

父の実家に到着

実家に到着すると一番に4人でばあちゃんに会いに行きました。

顔にかけられた布を父が取り、今にも動きそうな様子で眠っている顔を見て、手を合わせました。

福岡に住んでいる伯母さんは既に到着しており、お花の準備や喪主は父が務めることを決めました。

3年前にやっていたこともあり、たんたんと話が進み、僕は弟と受付をすることが決まりました。

翌日に告別式、翌々日に葬儀をすることが決まりました。

ここからが我が家の変なところで、ある程度決まったら自由行動が始まります。

父はいつものように畳で横になり、弟はスマホでゲームや仕事っぽいことをして

僕は祖父と伯父さんのお墓に手を合わせに行きました。

妹は僕について来るついでに、長崎にあるスーパーまつばやに行くというので、一緒に手を合わせた後に向かいました。

まつばやで祖母の棺に入れるものを探し、祖母が好きだったチョコレートや果物を買いました。

ここで妹が「ちいさい頃、ガラナを飲んでたよね。あるかな?」と話しました。

ガラナとは、シャンメリーのような炭酸ジュースで、お酒を飲めなかった頃は兄弟で1人1本は食事の時に飲んでいたジュースです。

店内を回っているとガラナがあったので

「懐かしいな。1本買うか」とノリで購入しました。笑

夕食の時に「こんな味やったっけ?」と言いながら楽しみました。

葬儀

食事を終えた頃、班の人が数人祖母に手を合わせに来てくれました。

父の実家では班という自治会のようなものがあり、葬儀などがあると班の人たちが集まり炊事関係のお手伝いをします。

祖父や伯父さんの葬儀の時に、班の奥様方がみんなで葬儀場の炊事場で食事の用意や配膳をしてもらい、当時とてもお世話になりました。

来てくださった班の方に、翌日の葬儀について話をして打合せを済ませました。

翌朝、葬儀屋さんが来て祖母を棺に入れ葬儀会場へ向かいました。

到着した葬儀場は、祖父と伯父さんの時と同じ場所で懐かしさを感じました。

きれいに装飾された会場で、孫一同として花の用意をしてもらい改めて祖母に手を合わせました。

班の一人の方が「うちの旦那もお母さんを亡くしたときは、気持ちが落ちてたからお父さんをサポートしてあげてね。」

はい。と答えて、自分の親を亡くすショックは人一倍分かってるつもりなので、気にかけてあげようと改めて思いました。

命のおもさ

祖母の火葬の間、窮屈さを感じ親族が集まっている部屋から離れ、ロビーで休憩を取っていました。

すると弟妹もロビーに集まり少し時間を過ごしました。

ふと僕は妹との会話で、母のときとの違いを話しました。

「母ちゃんの時と比べて、何て言うか楽よな」

「うん。母ちゃんのときは『なんで?っていうのでいっぱいやった。それにあの日はこれ以上無いってくらいのダメージやったし」

妹も感じていることは同じだったことを確認し合いました。

3年前の母の葬儀は1日が長く感じ、家族みんながメンタル面でもしばらく引きずっていました。

今回は94歳まで生きたばあちゃんが亡くなり、父も母を亡くしたという僕らと同じことを体験しました。

父の気持ちが落ちてないか、定期的に実家に帰り確認しようと思います。

祖母の骨

祖母の火葬が終わったとアナウンスがあり、親戚でぞろぞろと祖母のお骨がある場所へ向かいました。

祖母の骨を見て小さな声で妹が「母ちゃんの時より少ないね」

20歳になったばかりの妹が、火葬後の骨の多さを知っているのは変な感じだなと思いつつ「せやな。94歳やし、年取ると骨が弱るからやろうな」と返しました。

直近で身内の葬式を体験して、2つの葬儀を比較できるまでになっていることに驚きながら

骨壺に祖母の骨を入れ、手を合わせてこの日を終えました。

余談

ここからは、このときに過ごしたときにあった我が家の小話を。

母の葬儀のとき、父は礼服のボタンが閉まらず手を前に組みスピーチをこなしたりと何かとひと笑いを取る父でしたが

今回はスマートでない体型で、そつなくこなしてました。

父で小話がないので今回は弟妹のことでお話します。

猫とじゃれたい弟妹

父の実家には祖父が亡くなってから、野良猫がやってくるようになりました。

黒猫で、面倒をみているおばさんはそのままクロと呼んでます。

朝、昼、晩と食事の時間になると土間にやってきます。

おばさんを呼ぶ「ニャー」という一声で、弟と妹は飛んでいき、「何やったらあげて良い?」と聞いて、「カニカマなら良いけど無い」とわかると近くのスーパーまで買いに行きました。

珍しい組み合わせの二人が、猫にあげるカニカマを買いに行きました。

なかなか食べてくれないのか、細かくさいて手にのせたりして猫とじゃれてる姿は何というか、かわいいなと感じた瞬間でした。

バンドマンのような佇まいの弟

葬儀の日の朝、家族で唯一の喫煙者である弟がタバコを吸っている姿がTHEE MICHELLE GUN ELEPHANT(ミッシェル・ガン・エレファント)のようなバンドマンに見えて写真を撮りました。

弟も高校生の時に軽音部でギターをやってましたが、今は弾けないでしょうね笑

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